四の章  北颪
きたおろし (お侍 extra)
 



    外伝  昔がたり



        




 激しさを増すばかりな戦火の中を生き延びるための方策として、立ち止まらない振り返らないと決めたのは、一体いつのことだっただろか。悼むことも悔いることもいつだって出来る。それより何より、自分は生き延びねばならぬから。でないと、此処まで来るのにと薙ぎ払い、屠って来た名も知らぬ敵兵や、若しくは無念を預かった味方の魂にも申し訳が立たぬから。ただただそうと思ってのこと、何があろうと心震わせることなくの、非情にも歩み続けることを、決して立ち止まらぬことを自分に強いていたはずだのに。

  ―― そうと決めてからの後生の中で、
      ただ一度だけ、立ち止まったことがあった勘兵衛であり。

 どうかどこぞかで生き延びておくれと、天運に託して戦地の外へ、生命維持装置のポッドに寝かせて送り出した仲間がいて。そうやって見送った知己との別離もまた、初めてのことではなかったはずだのに。その別れには…何故だろか、秘かにずっと抱えていた温みをむしって手放したような感触がし、いつまでもいつまでも胸底がつきつきと痛んでの拭い去れはしなかった。そうまでも心を留め置いた相手だったかと、手放してから気がつくとは、まこと、何とも節穴な男よと、自嘲するばかりの苦い思い出であり。罰当たりな自分にはいかにも相応しい次第ではないかと、長い長い戦さが終焉を迎えてののちも、胸の裡
(うち)のどこかで常に、その痛みを噛みしめ続けていたものだった。





  ◇  ◇  ◇



 北軍 南部方面○○支部が置かれたは、元は民間の総合大学か大きな公民館ででもあったらしきを徴用した建物で。その官舎の西の向こう、程よい距離に望める河原沿いの土手の上。延々と植えられた桜並木が、ようやっと華やかなまでの満開を迎えた。土手が下がり降りる斜面
(なぞえ)に添うて、白鷺の翼のように嫋やかな腕を延べている梢へも、たわわな花がみっちりとついての、それは荘厳な花霞の帯が、結構距離がある官舎からでも一望出来て。その土手に沿ってゆけば、一番近い町へ出られる道でもあるのだが、ああまでの目立つ装いとなってしまうこの時期は、門限破りや無断外出がすぐにも見つかるのでまったくもって困ったことだと、誰ともなくから吹き込まれていた七郎次。
“そうか、ああまで見事な風景なれば…。”
 監視のつもりはない目まで、始終向けられるから見つかりやすいということかと、やっとのことで理解に至ったのだけれど。特に必要なお買い物があるでもないのになんでまた、そうまで頻繁に町へ行きたがる皆様なのかと、まだそこまでは判らないでいる青い新米者の春が、遅い桜と共に今まさに訪れようとしていた。




 士官学校を出てから、各所で適性を見るための研修を経てののち、勇猛果敢で知られる斬艦刀部隊への配属となって。単なる一兵卒としての配属かと思いきや、長の間 空席だったとされている“副官”というポストへの抜擢であり。絶対に務まりませぬと固辞したものの、これは決まったことで拒否権はないと受け付けられず。七郎次の新生活は、いきなりの波乱含みで始まった。それから程なくして、職務や部隊へと馴染む間もなく指令が下って前線へと駆り出されたが、部隊長の傍らにあっての奮闘を尽くしたことから、

 『ウチの副官殿は、新米ながらも骨があって、なかなか見どころがある』

 古参の皆様方からも、すんなり認められての受け入れられて。まるで皆様の弟のように、微笑ましくも見守られ、可愛がられていたりして。とはいえ、階級や組分けが錯綜する軍隊という組織のややこしさの中にあると、骨がありゃあいいとばかりも言えないことが起こりもし。

 『そこのうらなりっ、もう一遍 言ってみなっ!!』

 ただ立っているだけで誰もが振り返るほど、水も垂れるような瑞々しい美形でもあるうら若き副官殿は、だが。そんな嫋やかさを大きく裏切り、生きのいい魚のように ちゃきちゃきとした、それはそれは闊達な跳ねっ返りでもあって。空気が読めない訳ではないが、負けん気は強いわ、案外と頑迷で周囲や状況に流されないわと、なかなかに腕白な人性もしておいで。同じ部隊の皆様へは ちゃんと通せる礼儀が、よその部隊の輩からの挑発、それも隊長への悪口には黙っておれぬか。年嵩相手でも構わずに、ついついカッとなって喰いつき咬みつくことも偶にはあって。そしてそして…挑発しておきながら、罵り合いとなっても怯まぬ若造に手を焼いた末、途轍もない強腰に圧倒されてのつい、相手が苛立ち紛れに手を上げでもしようものならば。得物の槍こそ持ち出さぬが、手近にあったホウキをぶん回しての大暴れを厭わぬじゃじゃ馬は、もはや誰にも止めようがなく。

 『誰か、島田隊長を呼んで来いっ。』

 収拾がつかなくなっての御大登場と運んだことが、このほんの1カ月ほどの間に、一体 何度あったやら。とはいうものの、一人へ多数で当たっておいて、仲裁がまかりこすとたちまち“年少が生意気な”とか何とか、一方的に言い立てての罰を与えよと笠に着る顔触れへ、

 『…何なら鳧がつくまで続きをやるかね?』

 ただし、立ち会い人つきの一対一でだがと、止めに来たはずの蓬髪の偉丈夫がふふんと挑発的に笑って言い放てば、大概の相手は鼻白んで撤退してゆく。喧嘩上等と奨励でもしているものか、いやさ隊長からしての過保護ぶりということか。無論のこと、それで終しまいとはならず、騒ぎを起こしたは罰せねばと、外出禁止が言い渡されてしまうのもいつもの運び。そしてそして、そのお陰様、

 「こんのお馬鹿が。」
 「喧嘩が原因での外出禁止を、これで何度食らったね、お前。」
 「噂の美人が見たい会いたいと、
  あちこちの綺麗どころから急っつかれているのによ。」
 「ほんにほんに。
  それへと乗じて、我らもいい想いが出来ようものが、
  どれほどお流れにされていることか。」

 同じ部隊の先輩様がたから惜しまれているのは、新顔の話をあんまり誉めそやするものだから、男ぶりのいい皆様がそうまで可愛がっておいでの弟君、どんな美形か一目お逢いしとうございますと、あちこちの妓楼の太夫たちからねだられて、なのに応じられずにいることへの苦情…というから穿っている。罰を受けたは自業自得だから納得もいくが、それゆえ連れてゆけぬをどうしてくれると詰
(なじ)られるのは、お門違いもはなはだしくて。理屈がおかしいと思いはするが、日頃のご贔屓、ざっかけないながらも温かく遇していただいている構われようを思えば、そこは生意気な反駁も出来やせず。

 「相すみませぬ。またの機会にお誘い下さりませ。」

 いかにも残念そうにふしゅんとしぼんでのお返事をし、夕食もそこそこにお出掛けになられるのを、お留守番よろしく窓から見送った副官殿。後れ毛をくすぐる甘い風に誘われての眸を向ければ、土手の桜並木が夕映えの中、緋色の帯になって美しい。陽が落ちて暗くなると、街灯はわずかだが、それでも…月光に照らされた桜花は、自ら発光しているかのように妖しく輝いて美しく。それをただ眺めるのも乙なものだというのにね。
“…いくら花月の五の日だと言っても。”
 今月は桜を愛でての催しが多く、五と十というキリのいい日は、花魁を抱える花楼が競っての見目施し、高価な酒の振るまいがあるとかで。何もそればかりが目当てではなく、さすがは豪傑揃いの部隊だけあって、どの方もそれぞれに贔屓を持ちの、それ以外の女人たちからも持て囃されておいでと洩れ聞くものの。実のところを言えば、そういう方面への関心はまだあまり涌かない七郎次だったりし。きれいな女性をきれいだと思いはすれど、想いの駆け引きなんてなややこしいことよりも、どちらかといえば…取るに足らない馬鹿話へ腹を抱えて笑っている方が楽しいという罰当たりな身。喧嘩の罰としての外出禁止が、実は大助かりな言い訳になってくれていようとは、
“お釈迦様でも御存知あるまいってね♪”
 皆が皆、ほぼ同じ目的にて、ほとんど出払っての人影まばらになってしまう官舎の静けさはさすがに侘しいし、手合わせの相手もいないとあって手持ち無沙汰は免れられず。だがまあ、それは仕方がないことと諦めて。読み本でもあさろうかと、隊の皆が集まる休憩用の部屋へと向かいかかれば、壁に掛けられた在・不在確認の掲示板がふと目に入る。名札の裏表を返して在館か否かが判るようになっている、出欠表のようなもの。見回せば見事なほどに不在の札ばかりで埋まっていたが、

 “………あれ?”

 同じ隊で自分以外にも出掛けなかった人がいることに気がついた。意外といや意外だが、当然と言や当然なのかも。というのが、
“勘兵衛様…。”
 副官のお役目として、書類の整頓や身の回り品の整理などは一応終えての退出をしたのが小半時前。それでなくとも、今宵の外出を没収された元凶の大喧嘩をやらかしたのが、つい昨日の話であり、それへの始末書をこそりと出したのを“どら”と検分にかかられた勘兵衛様だったため。居たたまれなくてのそそくさと、執務室から出て来てしまった、今日ばかりは落第ものな副官だったりし。お傍に居づらくての離れたものの、
“まだお済みじゃないのかな。”
 そんなに複雑な書面ではなかったはずだけど。それに、
“そういえば…。”
 勘兵衛様が私用でお出掛けになるのは、そういや見送ったことがないなと、今更ながらに気がついた。いやいや、隊長格の御方ともなれば、他の隊士と一緒にわいわいと忙
(せわ)しく出掛けることはないのかも。花街へではないところに決まった女性がいらしての、小じゃれた寮などにお住まいなのを訪ねて行かれての逢瀬とか。そういうお付き合いをされておいでで、よっての例えば…もっとのんびりのお出掛けの途上、夜桜の風情を味わう余裕もおありだったりして?
“あれほどの男ぶりなんだから…。”
 さぞかし小粋な、はたまた物静かで嫋やかな女性がお待ちなんだろなと、思いはしたものの、
“…。”
 何だか表情が、定まらない七郎次だったりし。というのが、

 “…そんな女性がおいでなのかなぁ。”

 こそこそと隠す必要はなかろうし、そういうお付き合いを後ろ暗いことと構えるようなお人でもなかろう。周囲の皆様にしてみても、甲斐性あってのことならば、冷やかしこそすれ悪くは言うまい。だが、身の回りのことをお手伝いするその端々で、例えば…衣紋や持ち物などから女性の移り香がしたこともなければ、髪やお髭などなどへのお手入れなり構いつけなりを感じさせるよな…手を掛けられたらしい跡を見たこともない。はしたないから残さぬようにとの心くばりをなさる、それはそれは行き届いたお相手なのかな。でも、適当にずぼらでおいでの、髪も梳かぬままなところをばかり、お見受けしているし、
“征樹殿も良親殿も、そういう話をして下さったことがないし。”
 常に先鋒や殿
(しんがり)を任されておいでで、我が隊の双璧として、隊士の皆からも勘兵衛様からも信頼厚いお二方。皆様がお揃いでその手へお入れの“六花”の刺青のお話から、煙の匂いで敵に居場所がばれたほど、勘兵衛様がいかにヘビースモーカーかという逸話まで、隊にまつわる茶話のあれこれ、御存知なことは何でもお話し下さるものが、
“そういう女性がいるのなら…。”
 冷やかしではなく何かと気を回すべきこととしての助言がてら、少しくらいは話しておいて下さりそうなものだろに。彼らからも何も聞いてはいないと、今になっての気がついた。いやいや、何も必ずしもそういう色っぽい添えが必要ということはなし。他にだって、例えば職務に忙殺されている人や、研究や習練へ没頭しているお人なら、女っ気なしの居残りも珍しい話じゃあない。何より七郎次自身がそうではないか。そうは思えど、

 “でもなあ…。”

 男同士でも惚れ惚れするほどに精悍で、野生味あふれる男臭いお人だってのに。その上、戦さ場以外ではただただ落ち着き払っての静謐で、懐ろ深き重厚さが頼もしく。女性だってきっと放ってはおかないだろう、男としての魅惑に満ちた御仁だってのにね。

 『手近で間に合ってるってんじゃね?』

 ふと。そんな言いようをしていた声が脳裏へと甦る。選りにもよって、昨日の喧嘩の発端になった声だ。島田隊の活躍やそれが反映しての花街での彼らの人気を腐したかったか。その花街にて大将がもてているところはとんと見ないが さはいかに。なんの、手近に間に合う花がおるのだろ…などと。通りすがった七郎次に聞こえよがしな言いようをしたがための大喧嘩と相成ったのだが、
“…手近。”
 ウチの隊は呆れるほどに女好きぞろいだし、良親殿がちょっと見 やさしげな風貌をしておいでだが、そのやわらかい癖っ毛を女のようと言い腐った先輩士官候補生を、完膚無きまで殴り倒した揚げ句に病院送りにしたという恐ろしい伝説をお持ちの、どいつもこいつも似たり寄ったりな顔触れの困った部隊で…じゃあなくて。

 “そんなお相手が出来そうなお人なんて。”

 居ないのになと。今頃になって論理的なお答えを出している、順不同な単細胞だったりし。玄関前のロビーという、人の出入りも落ち着いた今は、すっかり静まり返っての閑散としているばかりなそんな場所。何を思ってかぼんやりと佇んでいた、いかにも所在無さげですと言わんばかりな風情の若いのへ、

 「七郎次。」

 聞き慣れたお声がかかる。不意なことゆえ、ハッと我に返った反応がそのまま出てのこと、仄かに肩を震わせた七郎次だったが、
「勘兵衛様。」
 噂をすれば何とやらとはよく言うけれど。奥まった側からのお声をかけたは、丁度その人と成りを思っていたばかりな対象の、我らが隊長殿ではないか。やはりまだ残っておいでであったらしく、背中へのマントこそお召しではないものの、上着も込みの軍服姿のままな立ち姿はやっぱり凛々しくも雄々しくておいでで。それを誉めそやする格好で思い起こしていた間合いだっただけに。間がいいのだか悪いのだか、そんなお人がそのまま姿を現したことへ、少なくはない驚きも出てしまった七郎次。そんなお顔をしたのが相手へも伝わったらしく、
「何だ。仇にでも会ったかのような顔をしおって。」
「あ・いやあの、えとその…。///////」
 まさかに、あなたさまに供連れの女性がおわすかどうかを勘ぐっておりました…などとは言える訳もなく。かといって咄嗟に誤魔化せるだけの何かしら、手持ちの話題
(ネタ)の用意もない以上、取り繕うだけの術を持たないところが、今のところはまだまだ未熟者な副官殿であり。これはやっぱり間が悪かったかと、罰が悪そうに首をすくめたまんまでおれば、
「…別段、怒ってはおらぬから、そうまで萎縮することもあるまいて。」
 小さな吐息をつく気配がし、そろりとお顔を上げたれば、目許口許ほころばせ、苦笑をなさっておいでの勘兵衛様で。
「そのようなところにいると、足元から冷やすぞ?」
 重厚な作りのこの建物は、あちこちに大理石だろう自然石の床や壁が多く。その冷たさが…眺める分には優美であるものの、長く立ち続けているとてきめんに冷えが這い上っても来るそうで。
「特に用向きもないのなら、部屋まで来い。」
 他の隊士と同様に、宿舎の中にもお部屋が用意されておいでのはずだというが、そっちは手付かずなままにして、もっぱら執務室の奥の間を“仮眠の間”という私室として使っておいで。整頓するのがよほど苦手でおわすのか、こちらは年相応のレベルで“得手ではない”程度だった七郎次を絶句させたその空間も、今では何とか…どこに何があるのかは判るほどまでの落ち着きを見せており。そこへとおいでということと、自然と断じて、
「はい。」
 素直に応じる。これまでの居残りの晩の何日かも、そういえばこうやってお相手くださった勘兵衛様で。ただまあ そちらの晩は、まだあれこれ覚えることもあったのと、事務処理のお仕事が溜まっていたのでその加勢に当てにされたという、言わば昼間の続き、残業のような過ごし方をしただけだったのだけれども。となると今宵は、
“さすがにそろそろお説教をされるのかしら。”
 何しろ喧嘩っ早い短気者、あまりに度が過ぎれば“威勢がいい”とばかり言ってもおれぬ、団体生活の何たるか、柄ではないが一応は、口説を垂れておこうということかも。颯爽と進まれる隊長殿の後を、ちょっぴりしおらしくも大人しい体裁のままついてゆけば、

 「相変わらず外出禁止もあまり堪えてはおらぬようだが、
  あのようなところで何をしておった。」

 こんな遅くにと付け足されたので、手近な壁を見上げれば、壁掛けの大時計が指していたのは、十刻間近な結構な頃合い。あれ、もうそんなでしたかと、今頃に意外そうなお顔をしたのへと気づかれて、

  ―― ふふと、小さく和んだ微笑い方をなさった勘兵衛様であり。

 ああまただ。童子のような奴めよと、微笑ましく思われたのだろなと。優しい御方であるからこその鷹揚さを向けられて、温かくて嬉しいと思いはするが、それと同じくらいに ちょこっと癪だなとも感じ入ってしまう。初めてお逢いしてそのお人と成りへ魅了されてからというもの。当初は構いつけられるのへも、素直に高揚だけを感じてはしゃいでおれたものが。先の戦さでの大立ち回りを経て以来、それだけでは収まらぬと思う餓
(かつ)えのような意識がどこかに芽生えており。認められた上で、この御方の眼差しを独り占めしたいなどと、畏れ多いにも程があろうことを本気で思う自分に気づく。新米もいいところの自分なぞ、例えば同じ部隊の他の猛者の方々と比しても、その足元にも及ばぬ身のはずだのに。それでもあの、月夜の戦いが忘れられない。自分はこうまで好戦的であったかと、我に返ってはっと息を飲むほどに。じっとしていても血が騒いで止まぬのは、誰かを屠りたいからではなく、あの素晴らしい人から対等だとただただ認められたいから。

 「〜〜〜。」
 「いかがした?」

 口許をすぼませての、拗ねておりますというお顔。子供扱いを厭うくせ、その端からこういうお顔をしておれば世話はなく。戦さ場にての策士の才はあっても、泰平人の心の中までは覗けぬか。妙な奴よとなおの苦笑をなされた勘兵衛様に連れられて、人影もまばらな通廊を歩む。甘い夜風に誘
(いざな)われ、静かに静かに訪のうての過ぎゆきようとしていた、いつもと変わらぬ春の宵。まだ咲き初めの桜はしっかと揺らがず、蒼月の光を浴びてさわさわと、風に躍って梢のみが揺れるばかり…。









 ぱかりと目が覚めたその瞬間は、いつもの朝と変わらぬ感触、ああ今日も朝が来たかという程度の感慨しかなかったものが。横になったすぐ傍らに何かあるのに気がつき。あれれぇ? 皆さんと酒盛りでもしたっけか? それで雑魚寝になったとか? いやいや、揃ってお出掛けになられたの見送ったじゃないかと思い出したのと重なって。視野に入った“それ”が何なのか、するすると輪郭が冴えてゆく意識と競争するように、どんどん鮮明になってゆき。

 “………勘兵衛、様?”

 ご自分の腕を枕にしての横を向き、少しほど俯き加減なお顔はまるで、こちらへとわざわざ向いて下さっているかのようで。まぶたを降ろした無心な寝顔は、だのに精悍な雄々しさが抜けないままで。一つ寝床に二人で居る窮屈さのせいだろか、眉を寄せておいでなところが、ともすれば気難しい表情にも見えもして。

 “……え?”

 まだまだ子供も同然の十代へ無理から勧めるのはよくないと、宴の席などではさりげなく楯になって下さるほどだったのに、いやに強そうな酒をそそいで下さるのが、不審といや不審ではあったけれど。

 “…えっと?”

 ふわりと。柔らかな風がどこからともなく吹いてきて、頬へそぉっと触れたよな。そんな軽やかさを思わせて、隊長殿の気配と温みとが間近になった。煙草を嗜んでおいでの、ちょっぴり渋い、癖のある匂いが鼻先へと届く。互いのお顔や手元が見える程度には必要な“間合い”というものを、そりゃあなめらかな所作にて詰めて来ての、あっと言う間の出来事であり。しかもしかも、

 “えっと…。/////////”

 深色した双眸に視線を搦め捕られてしまっての、身動き出来ないそのままに。自分よりも優に一回り大きな懐ろの深み、男臭い香にくるりと抱きすくめられたと同時、何か柔らかなものが唇へと重なったと感じた…それから後の記憶がない。口の中へと流れ込んでの、触れた端から炎と化した何かしら。たいそう強いお酒を頂戴したらしいと判ったのはずんと後になってからで。

 “こ、これって、どういう………?”

 ぱかりと目が覚めたその瞬間は、いつもの朝と変わらぬ感触、ああ今日も朝が来たかという程度の感慨しかなかったものが。じわじわ目覚めてゆくのと同時進行ではっきりしてゆく現状に、顔から頭から血の気がさぁっと引いてゆく。その懐ろへと掻い込まれているも同然の、この近さはどう考えても。一緒に添い寝、もしくは供寝という格好ではなかろうか。昨夜は何があったかと、こうなるに至った顛末、寝しなの状況とやらを何とか思い出そうとするのだが。この仮眠室へと着いてからのあれこれがあまりに曖昧で。しかもしかも、浮かび上がってくる状況とやらがまた、とんでもないことずくめなものだから、落ち着こうにも落ち着けず。そんな中、

 「………。」
 「…っ!」

 眠っておられた隊長殿が、それは静かに目を覚まされて。慌てふためいていた七郎次の呼吸が止まる。歴戦のもののふも、平生の朝はさほど緊迫をしてはおられぬか、鮮やかに覚醒しての身動きなされるということはなかったが。間近にいる相手へ気づかれたのか、

 「…。」

 しばしの間、こちらをじっと見やっておいでのそれから。表情は動かさぬまま、それでも身を起こしてしまわれて。
「えと、あの。」
 相手に合わせ、七郎次もまた身を起こしたものの、何が何やらと混乱至極。説明せよと言われたらどうしようか。だって何にも覚えてはいない。でも これってばもしかして、とっても不遜で失礼なことじゃあないかしら? だって、そりゃあ無防備でおいでな寝顔、こんな間近から見てたのだもの。勿論のこと、故意にじゃあないけど、企んでのことじゃあないけれど。じゃあどうしてかと問われたら? 自分へのというよりも、隊長殿への“どうしよう”で頭が一杯になっていたから、

  ―― 再び間近まで近寄って来たお顔が、するりと

 そりゃあ手慣れた所作、呆然としているこちらの間合いへすべり込んでたことへ。全く気がつけずに居て。はっとして顔を上げたところへそのまま、何とも要領良く、唇重ねてしまわれて。

 「眸くらい閉じぬか。」
 「え?」

 呆然とする肩に掛けられたは、自分の軍服の上着。顔を洗って来い、早よう食堂へ行かぬと喰いっぱぐれるぞ。そう言われてふらふらと立ち上がり、手前のドアを開く。やはり静かな執務室を呆然と通り抜け、廊下への扉を開けば…わっと意識へ飛び込んで来たのは、いつもの朝のにぎやかな喧噪。
「よお、七郎次。」
「聞けや。東吾の奴、明里にひじ鉄くらったらしくてな。」
 ああ、いつも通りの朝じゃないか。皆様から声を掛けられつつ、周囲のざわめきに総身が取り込まれてゆく。間違いなく流れている時間と、ぼやぼやすんな置いてくぞと、そりゃあ闊達に躍動なさってる皆様のお顔や声と。

 “何ぁんだ。俺、夢見てたんだ。”

 勘兵衛様のところで夜更かししちゃって、慣れない寝床だったんで寝ぼけたんだな。それと、お酒も勧められたし。

  ―― それでよ、おい聞いてるか?
      あ、はいはい。

 慌ただしくも新品の、さりとて…恐らくはいつもと変わらぬルーチンワークで消化されるのだろう、昨日と大差ない一日の始まり。そこへと取り込まれつつ、ついさっき出て来たばかりな曖昧な夢への扉、肩越しに振り返ってみたものの。
「…どした?」
「あ、いえ。」
 無表情な樫のドアは、まるでその中におわす御方の、物想いに耽るときの横顔のように何も語らず。気さくな先輩隊士らに、肩を抱かれて引っ張られ。曖昧な記憶は、為す術なくの ただただ遠のいてゆくばかり…。






 朝から元気な喧噪に囲まれつつ食事を取ってから、自分の部屋へと一旦戻って。髪を梳いての身支度を整え、上からの指令や連絡、下からの報告や申し送りが統括されて届く“通信部”へと足を運び、部署ごとにバインダーに挟んでまとめられた、新しい決裁書や報告書を双腕に抱えての、さて。たかたかと勇ましい歩みで突き進んだ廊下の先、朝出て来たドアと再び向かい合う。
「…。」
 睨めっこしていても始まらないが、でもやっぱり、躊躇が挟まるのは否めない。どんな顔すりゃいいのかな。いや、あれは夢だったんだって。じゃあ…どこからが夢?

 「…七郎次です。」

 ノックをして声を掛ければ、おおという応じがあって。さあ、もう後には引けない。両手が塞がっておりますのでと、慎重を装ってそぉっと入れば。部屋の主は既に机に向かっておいで。豊かな蓬髪の輪郭をけぶらせて、向背に位置する大きな窓からの柔らかな陽を受けておいでのご様子は、昨日の昼間と全く同じ構図であり、こちらをちらと見た所作・素振りにも、特に変わったところはなくて。

 「何だ、今日もそんなに伝達や決済があるのか?」
 「あ、はい。」

 事務仕事は苦手でおわすか、いつもの通りの渋いお顔をなさるのへ、あははと困ったように微笑って差し上げ、
“…やっぱり。”
 接吻したとか抱きすくめられたとか、そんなややこしいごちゃごちゃは、慣れない酒が見せた気の迷いだったに違いないと。やっとの駄目押し、もとえ、確認を取った気分になれたものの。
“…気のせい、か。”
 そうと定まれば定まったで…あれれ? 何でだろ。ほっとしたって言うよりも、なんてのかな、これって………がっかりしてないか? 俺。ちょこっとばかり複雑な想いを噛みしめながらも、補佐官用の机に着くと、新しい報告書の束を手にとって、勘兵衛様が見やすいよう整理補足をするための下見にかかる。無理から押し込めた想いを、胸のうちの奥底へと更に踏み敷いての追いやって、昨日と変わらぬ一日が静かに静かに始まったのだった。



←BACKTOPNEXT→***


  *何だか妙な勘兵衛様ですが相すみません。
   GWでお立ち寄りの方も少なかろうという油断にかこつけて、
   良からぬ展開を目論んでたりします。
(おいおい)
   あくまでも外伝ですから。
   以降も自己満足はなはだしい展開となる予定ですが、
   しかもめっきりと“勘シチ”ですが、どかご容赦をvv